少女の眼差し
2011年10月10日
季節は秋、
運動会シーズンである。
この時期になると、思い出す光景がある。そう、あれは10年、いや、それ以上前だったかもしれない、
息子の通っていた保育園の運動会のワンシーンである。
当時、時間的に多少余裕のある仕事に就いていた私は、息子のお迎えでたびたび園に出向いていた。
“イクメン”という言葉がなかった頃、時々その少女を見かけたのだった。
彼女は障害児だった。
人間的に未熟者だった私は、なるべく眼を合わさないようにしていた。
そう、いつも“可哀そう”と感じていたのである。
秋晴れの晴天の中、大勢の観客が運動場を埋め尽くし、
子供たちの歓声や拍手の中、『パ~ン』とピストルが鳴り、歓声がこだましていた。
一位でゴールし、おどける子や途中で転んで泣きながら走る子、
終始笑顔で、順位などお構いなしの子、
そんな中、一番最後のグループで少女はスタートラインに立っていた。
『まさか!』
私は心の中でそう呟いて、また、いつもの様に眼をそらそうとしていた。
『パ~ン!』
と共に『ワー!!』と歓声が上がる。
瞬く間に皆、ゴールしていった。
残された彼女に全員が一斉に目を向けた、その時、
広い楕円形の競技場に、たった一人、
懸命に走る、歩くを繰り返す少女の『眼差し』は光り輝いていた。
それは、滅多に眼にすることのない、
人が真剣に物事に取り組んでいる鋭い『眼差し』である。
運動会でよく耳にする、テンポの良い音楽が流れる中、
不思議と場内は“シーン”と静まり返っていたように感じる。
心が激しく揺さぶられ、
胸の中に熱い何かが流れていくのがわかった。
ゴールはもうすぐそこ、
いつしか、静寂は大歓声に変わっていた
観衆の割れんばかりの暖かい拍手が延々と続く中、少女は『ゴール』した。
振り返って思うのだが、あの時目撃したあのシーンの少女は、
もしかしたら、私自身だったのかもしれない
固唾を呑んで見守っている観客、
もしくは、身体は健常者でも何かに懸命に抗っている挑戦者、
社会的に追い込まれた生活を強いられている者、
人生の中で分厚い壁に囲まれモガキアガイテいる自分自身と重なり合わせ、
決してあきらめてはいけないと己を奮い立たせながら
その場にいた全員が、内なる“その少女”に熱いエールを送ったのだろう。
いや、そうに違いない。
今日は10月10日、体育の日、
今もあの時のあの『少女の眼差』がやさしく私に語りかける